

おにしさん (詳細は後述)
京都駅から少し離れた堀川通りに面して、広大な敷地に巨大な木造の大屋根のお堂が建ち並ぶ大きなお寺が「お西さん」と親しまれている西本願寺です。京都の街の碁盤の目の一区画で収まる大きさでは無いため、京都市街を南北に走る堀川通りはここに近づくに連れ、徐々に横にずれていき敷地をかわしています。朝5時半に梵鐘の音と共に開門されると近くの門徒が続々とお参りに訪れます。境内は世界遺産に登録されており、お堂は国宝揃いです。新撰組の屯所として使われていたと言われる建物もそのまま残っているなど見所の多いお寺です。

おひがしさん (詳細は後述)
京都駅から一番近いお寺がこちら、お東さんと親しまれている東本願寺です。久しぶりに京都に来た観光客がこのお寺の前を通り過ぎた時に、ほかのビルなどとの大きさの違いに一瞬スケール感がおかしくなるように感じるのも無理もない話です。それほどまでの規模で、この京都駅前の広大な敷地に巨大なお堂が建っています。

東と西の本願寺はどういう関係?
【西本願寺】西本願寺は親鸞聖人を宗祖とする、浄土真宗の本願寺派の総本山です。正式名称が龍谷山 本願寺であり、西本願寺とは通称です。鎌倉時代からの長い歴史の中では、ご存知の通り幾度もの戦乱に巻き込まれて移転を繰り返してきましたが、最終的には秀吉からこの地を寄進されて現在に至っています。浄土真宗では信者のことを門徒と言いますが、西本願寺(本願寺派)の門徒は全国に750万人以上とも言われています。西本願寺は世界遺産に登録されており、境内の諸堂は国宝揃いです。
【東本願寺 】東本願寺は浄土真宗の一派、真宗大谷派の総本山です。東本願寺(真宗大谷派)の門徒は全国に500万人と言われています。東本願寺のみで捉えると歴史は家康の時代以降からです。それ以前は西本願寺と分離していない状態の本願寺でした。どちらが本流などと言うことは別として、家督争いで分離して家康の寄進で新しくできたのがこちら東本願寺です。

共通点など
両寺とも京都駅間近の広大な敷地に建つ巨大な二つの御影堂と阿弥陀堂を中心とした浄土真宗のお寺であり、大谷本廟(西)と大谷祖廟(東)という親鸞の墓地が東山にそれぞれあり、全国各地にそれぞれの別院があるなど、色々と似ている点が多いです。大阪御堂筋はこの東西、両本願寺の別院(御堂)があるので御堂筋と言います。(北御堂と南御堂です。北御堂は西本願寺、南御堂は東本願寺です。)東京の人だと築地本願寺が馴染み深いですが、こちらは西本願寺の末寺です。西と東とも元々は一つの寺だったから同じような境遇が重なるのも特に不思議ではないですが。

本願寺
西本願寺も東本願寺も宗派は浄土真宗で、浄土真宗の宗祖は親鸞ですが、この寺の開山ではありません。簡単に言うと親鸞がこの寺を開いたのではないと言うことです。親鸞は比叡山で修行したのち、山を降りて浄土宗の開祖である法然に弟子入りしさらに修行を進めますが、日蓮などもそうですがとかく新しい仏教は旧来の仏教勢力から弾圧を受けがちで、親鸞も同様でした。流罪に遭うなど苦労しつつも念仏の教えを突き詰めました。親鸞の亡き後、弟子たちが京都東山に廟堂を建てたのが本願寺の始まりです。
浄土真宗
浄土真宗は他の宗派とは異なる点が多いと感じます。一番大きな違いはお寺にいる僧侶です。普通に僧侶というと大抵は坊主頭がほとんどですが、こちらでは普通にフサフサとした現代人のヘアースタイルを保っています。一見僧侶にはちょっと見えない、と言ったら失礼ではありますが、、、。またこちらではお守りを扱っておらず、御朱印もありません。もちろん境内に入山するのに拝観料は取られません。誰にでも門戸を開いていると言う印象です。あと、浄土真宗の門徒の家の仏壇には位牌が無く、過去帳を置いています。これらは宗祖親鸞の教えを解釈しての対応です。
巨大なお堂
東本願寺のお堂の巨大さには何度見ても驚かされます。御影堂(ごえいどう)と言う一番大きいお堂は、正面の横幅76メートル、奥行き58メートル、高さ38メートルと言う大きさで、木造の建築物としては世界最大です。西本願寺の御影堂はこれより少し小さく、正面の横幅62メートル、奥行き48メートル、高さ29メートルとなっています。西本願寺のお堂は国宝ですが、東本願寺のお堂は重要文化財指定です。資材の面から、現代において同じものを建築することは不可能と言われています。
西本願寺をめぐる

西本願寺の境内は京都駅から近い一等地にもかかわらず非常に広大な敷地を有しており、当然の事ながら京都碁盤の目の一区画で収まる大きさではないため、この前を通る堀川通りは北から南下してここに近づくに従って徐々にずれていって西本願寺をかわしています。

西本願寺の御影堂門の堀川通りを挟んだ向こう側にもう一つの門があります。総門と呼ばれる重要文化財指定の門です。この位置関係を見ると後世にやむを得ない事情があって、ここに取り残されたように建っていると想像が付きます。門をくぐると京都市内でも有数の幹線道路である堀川通りを、ビュンビュンと車が行き交う有様です。

この門、明治以降に数回移転を繰り返しているといい、かつては寺の境内に道路が横切るなどはなかったはずが、時代とともにこの状況となったのでしょう。門前の仏具店が立ち並ぶ街の門と言った趣きです。

ポツンと門だけが取り残された状態で建っており、両脇にわずかに塀が付属しています。


西本願寺は、5本線を有する築地塀が境内をぐるっと取り囲んでいます。この5本線の築地塀は寺格の高い寺や門跡寺院にて設置が許されているものです。

この塀の前にはお城のごとく、堀が巡らされています。堀としての機能と言えるかは別として、容易に他者を侵入させたくないと考えた時期があった名残でしょうか。


堀川通り沿いの御影堂門から境内に入ります。門から境内を覗くと広い敷地に巨大な木造建築がふたつ、圧倒的な存在感で鎮座しています。拝観料も無く誰でもいつでも入れる、開かれた雰囲気です。

目隠し塀があるのをあまり気にしていませんでしたが、よく見ると重要文化財指定されているだけのことはある、しっかりとしたものです。土台はコンクリートかと思ったら、そんなはずはなく石でした。


目隠し塀のすぐ裏にあるのが京都市指定天然記念物の逆さ銀杏です。一般的な銀杏は樹高が高くなるのが通常ですが、こちらの銀杏は低い位置から横に枝を伸ばしており、まるで根が広がったように見えることからこの名が付けられています。御影堂と同じ時期に植えられ、400年ほどの樹齢だそうです。


目隠し塀を横にずれると御影堂が見えます。他の京都の有名寺院と異なるのは、見せるための要素があまり無い点です。広い境内には作庭された池泉回遊式庭園や枯山水庭園があるわけでもなく、一面に砂利が敷かれた広い境内のみが広がっています。簡単に言ってしまうと、極めて質素で地味な印象です。見せ場が無い訳ですが、それはこのお寺には必要の無い要素だとここに1時間も滞在していると自ずとわかってきます。この巨大なお堂もたくさんの門徒を受け入れるために必要なサイズであったわけです。質実剛健という印象です。


御影堂(ごえいどう)(国宝)は切妻の大屋根が特徴で、この寺のほとんどのお堂は江戸時代初期の火災で消失しており、ここ御影堂もその後の再建になります。13代宗主の良如(1612〜1662)が全国に支援を求めるなど再建を主導しました。再建工事が開始されたのは火災の16年後からで、3年間で完成しています。幅62m、高さ29mの巨大木造建築です。

御影堂では靴を脱いで自由に上がることができます。床板の重厚な感じが足の裏から伝わってきます。広い縁側に 等間隔で33本並ぶ列柱は細めの印象ですが近くで見るとかなりの太さの柱です。材種は全てケヤキで、この太い柱を直線で取るのは相当大変な作業であったようです。

御影堂の妻側で見た蔀戸(しとみど、跳ね上げて開放する扉)が重厚かつ優美なので必見です。

隣に建つ阿弥陀堂は御影堂より少し小さいお堂で、渡り廊下で繋がっているのでそのまま行けます。

一般的に拝観できる部分だけで見ると、質素な境内と質実剛健なお堂だけで終わってしまいますが、境内の南側の御影堂の脇の通路を入っていくと、まるで門跡寺院の御殿のような建物が見えてきます。表の部分とはずいぶんと様相が異なります。建物内には入れませんが、外観を見ただけでも書院造りの豪華で華美な印象が伝わります。国宝の日暮門(唐門)を始めここにある建物は国宝揃いです。
白書院(国宝):3つの部屋で構成されており、重厚感ある薄暗い室内は経年の変化によってさらに重みを増して緊張感漂う室内になっています。金箔張りの壁や障壁画で覆われ、宗主が座る一の間から二の間、三の間と続き対外的にはまるで将軍や天皇並みの扱いであったことが窺えます。
黒書院(国宝):対面所から北に延びる廊下の先にあり、僧も立ち入ることができない空間であり、扉で閉ざされた宗主のプライベートな領域となります。白書院とは明らかに雰囲気が異なり、簡素な天井、丸太の柱、シンプルな内装で豪華なものが一切ない数寄屋造りの空間となっています。
対面所(国宝):鴻の鳥の欄間があることから鴻の間とも呼ばれています。御影堂が完成するまではその機能をこの部屋で対応していたようで、親鸞の命日には多くの門徒が集う場所となっています。狩野派の渡辺了慶作の松の障壁画が天井まで届くような大きさで描かれており、二条城の松の障壁画に似た感じです。










書院エリアのほかに更に拝観不可のエリアが滴翠園と呼ばれる庭園で、境内の南東部分に白い塀で囲われた部分になります。塀の向こう側なので特に気にしないでいると敷地外なのかと思ってしまいますが、ここも西本願寺内です。

この滴翠園の中に、金閣、銀閣と並んで京都三名閣として知られる国宝の飛雲閣があります。御影堂の縁側からは一層目の屋根より上の部分が見えます。建物意匠的にはなんとなくバランスが悪いように思えてならないのですが、外壁に何やら雅な絵巻物のような絵が描かれていたりするのが見えて、なかなか謎な建物でもあります。

東本願寺をめぐる

東本願寺の前を烏丸通りが通っていますが、不思議に門前を避けるようにカーブしています。これは路面電車が走っていた時代に、参拝者が多数乗り降りした際に危険だということで門前を避けて計画された名残りです。

東本願寺も西本願寺と同じように、境内の外周は5本線の築地塀で囲まれてその周囲には堀が巡らされています。

ではまずは正面の大きな山門をくぐって境内に入ってみたいと思います。この門は御影堂門(ごえいどうもん)と呼ばれ、重要文化財指定となっています。横幅が比較的狭いのでより高く感じられますが、高さ27メートルで日本最大の山門です(高さで競った場合)。横幅は21m、奥行は13m。

この御影堂門は明治に入ってから再建されている比較的新しい建築です。江戸時代だけでも4度の火災に遭い、焼失と再建を繰り返してきています。形式としては楼門と言う二階部分にお堂としての空間がある造りで、釈迦三尊像も祀られていますが非公開のため拝観はできません。


御影堂門は巨大ですが、阿弥陀堂門はより古風な唐門の形式の重要文化財指定の門です。


御影堂門を入って、正面に大きく平べったく二層の屋根を持つ巨大な建物が御影堂で、使用されている屋根瓦は17万5千枚だということです。2階建てのように見えますが内部は一層であり927畳の空間が広がっています。親鸞聖人を祀るお堂ですが、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂よりも大きいと言うことから、宗祖の親鸞への想いの方が大きいと言うことでしょうか。

家康の寄進によって本願寺から分離した東本願寺は後から作ったからかどうかは不明ですが、西本願寺よりもお堂の規模がかなり大きいです。先にこちらを訪れたあとに西本願寺に行くと、巨大だと思っていた西本願寺の御影堂が小さく感じるほどです。

広大な御影堂は西本願寺と同じく、靴を脱いで上がることができます。西本願寺の御影堂と建物の作りはいろいろなところが異なるので、双方訪れて見て比較するのも面白いと思います。

境内についても西本願寺と同様に、京都のお寺らしい庭園などが無い質素な構成です。ただ、これも西本願寺と同様に一般的には拝観できない奥のエリアには御殿のような書院があります。こちらは優美で見応えがあるように思えるので、拝観可能となるように期待したいところです。

東本願寺は1602年の創建で、そこに至るまでには多くの歴史があります。信長との戦の後、顕如上人は信長との和睦を受け入れようとしますが、その長男の教如上人が和睦を不服としたことから本願寺は二つの派閥に分裂し、関ヶ原の戰の後に、かねて家康に協力してきた教如上人は家康からここ烏丸七条の土地を寄進されることとなります。
それが現在の東本願寺となり、本願寺は西本願寺と東本願寺に分かれることとなります。

それにしても、これほどの大寺院が二つも同じように存在していることが不思議でならないですが、こういった経緯を聞いてようやく納得ができるというものです。
ここまで西本願寺と東本願寺を比較して見てきましたが、いずれもその存在の全てがもの凄い規模であり、ご自身の宗派であれば尚更その総本山の実態を体験して頂ければと思います。