
◆東寺とは
新幹線の車窓からこの五重塔が見えたら、もう京都に到着です。京都駅から見える最初のランドマークであるこの五重塔があるお寺が「東寺(とうじ)」です。(ただ、大阪方面から来た場合は見えますが、東京から来た場合は見えません。)
東寺は
平安時代、日本仏教の礎を築いた空海が31歳の時に遣唐使船で唐に渡ったのは804年のこと。その2年後に最先端の仏教である密教を日本に持ち帰ってきました。帰国後は紆余曲折ありましたが、天皇の信頼を得て国家鎮護のために東寺を賜るのです。密教を日本に広めるべく活動し続け、密教を修行するために開いたのが高野山です。

東寺へ
京都駅からは駅の南側の八条口を出て向かいますが、京都での寺巡りで駅の南側にあるお寺はこの東寺くらいですので、お寺巡りのスケジュール計画を立てる場合は、例えばですがここから東福寺に行けるバスがあるので東福寺と組み合わせる案など、バスを使うなど計画を立ててから動くことをお勧めします。

京都駅からは徒歩だと20分くらいでしょうか、近いようで割と歩きます。途中の道中も大通りの交差点を渡り信号待ちをして、景色も殺伐とした中を歩くより、近鉄で一駅乗車してその名も東寺駅で下車して徒歩10分弱の行き方をお勧めします。景色は似たようなものですが、九条通りから寺の正門でもある南大門に直接到着できます。
東寺の歴史について
東寺の正式名称は教王護国寺といい、794年に都が平安京に遷都された際に国の鎮護を託された官寺として創建されました。平安京の皇居と言うべき大内裏から南に真っ直ぐ伸びた朱雀大路の南端の羅城門の左右に東寺と西寺が1対で建てられました。それぞれ平安京の東と西の鎮護の役割を任されての創建です。当時の平安京では寺の設置はこのニ寺しか認められていませんでした。これは、かつての平城京での寺の力の強大化を制御できなかった教訓を活かした政策でした。
創建から30年ほど後に当時の嵯峨天皇は、空海をこの寺に呼び寄せます。空海は遣唐使として渡った唐での2年間で密教を習得し、日本に帰ってから真言密教の教えを突き詰めるべく高野山で修行を続けていたところ、密教で都を守る役割を嵯峨天皇から期待されてここ東寺を任される事となります。よって、この東寺は空海が開山となって創建された寺ではなく、元々は真言密教の寺ではなかったお寺を空海が真言宗の寺に変えたと言う経緯となります。

伽藍の構成
東寺の伽藍は北から食堂(じきどう)、講堂(こうどう)、金堂(こんどう)と南北に一直線上にお堂が並ぶ配置となっていて、この形状は平安時代から現在まで変わっていません。創建当初は本堂である金堂のみが建ち、空海が来てから五重塔や講堂が計画されました。ただ現在は創建当初の建築は残念ながら一つも残っていません。

南大門から境内に入ると最初にこの寺の本堂である金堂が見えます。ただここでは金堂に入る事はできず、ぐるっと回って拝観入り口にて拝観料を払っての入場となります。まずは金堂、講堂を横目に歩いて講堂と食堂の間を抜けて売店横の拝観受付に行きます。

有料拝観エリアには、五重塔、講堂、金堂と緑豊かな庭園があり、国宝の仏像などがある東寺のメインエリアであり必見です。通常の拝観料は500円で、特別拝観期間には宝物館と塔頭寺院の観智院との共通拝観料(1000円)などもあります。講堂と金堂へは内部に入っての拝観が可能ですが、五重塔の内部拝観はできません。特別拝観で初層のみの拝観を実施している時があるので確認してから行く事をお勧めします。
◆講堂
講堂の御本尊は大日如来です。大日如来は密教では最も尊い存在とされ、存在そのものが宇宙とされています。
受付を済ませて砂利の敷き詰められた境内を歩くと、白壁と朱塗りの柱が特徴的な「講堂」が見えてきます。講堂は平安京創設の際の東寺創建当初からあったお堂ではなく、空海が作ったお堂となります。1486年の火災で境内のほとんどのお堂とともに焼失しましたが、わずか5年後の1491年に再建されました。現在の講堂はこの時再建されたものが500年以上経った現在も建ち続けています。
講堂に足を踏み入れた瞬間、前室や間仕切りの無い薄暗い大空間にスポットライトで浮かび上がった仏像群がいきなり現れます。腰くらいの高さの白く広い基壇に整列されており、中央には一際大きい大日如来像が鎮座し、周りを四体の如来像で囲み五智如来を形成しています。その向かって右側エリアには五体の菩薩像で五大菩薩を形成、向かって左側エリアは不動明王像を中心として五大明王を形成しています。講堂に安置された仏像の数々は立体曼荼羅(まんだら)と表現されます。曼荼羅とは密教の教えを平面的に図解で表現したものですが、空海はこれを実物の仏像を配置することによって、見た目で誰にでも理解できるようにしました。この講堂内にはその立体曼荼羅が21体の仏像によって表現されています。中央の大日如来を中心に



火災で焼失した講堂の仏像群がなぜ現存しているのか?
現在でも、平安時代839年の講堂建立当初に製作された仏像群を中心に立体曼荼羅を構成していますが、この講堂は1486年に火災で焼失しているはずです。建物は焼失したのに中の仏像が残っているのは謎でもあります。また多くのガイドにはこの講堂が重要な建物だから焼失から僅か5年で再建されたと書かれていますがそうなのでしょうか。
仏像が現存するのは、火災の時に運び出して救出し、難を逃れたためだとの事です。ただし木造の建物が火災に遭って燃えている最中にこれだけ多くの仏像群を運び出す事が本当に可能なのでしょうか。
839年の講堂建立と同時に作られて現存している仏像は21体のうち15体と思われます。まず中心にある五智如来の5体は造りが比較的新しく、金箔も比較的綺麗に残っています。更に五大菩薩のうち金剛波羅蜜菩薩像のみが金箔が綺麗です。合わせてこの6体が講堂再建時代の仏像となります。残りの諸尊15体は彩色がかなり劣化したり金箔はほとんど剥がれたりしており当初からの経過が感じ取れます。ただ五大菩薩の残りの4体は光背については後世の作と思われる金箔の綺麗さです。
そして15体を火災時に運び出せるかという事ですが、火災の理由は当時頻発していた土一揆が原因です。東寺が土一揆の拠点となる状況下で危険を察知した僧が早めに仏像群を退避させていたのではないでしょうか。再建を急いだのは、これら退避させた仏像群を少しでも早く安置したかったからではないでしょうか。
密教とは何か、曼荼羅とは何かとわからなくても、この圧倒される仏像群の前に立つといろいろと想いが出て来ては消えいつしか無になった気がします。

講堂の仏像は国宝や重要文化財揃いで、この寺を象徴する真言密教の教えそのものと言えますが、中心の大日如来も実はこの寺の本尊ではありません。この寺の本尊は次の金堂に安置される薬師如来です。

金堂
この寺の本堂である金堂は796年に東寺創建と共に建立され、本尊は薬師如来を中心とした薬師三尊像です。1486年に火災で焼失した後はなかなか再建されず、豊臣秀頼(秀吉の息子)の発願により再建開始し、ほぼ江戸時代が始まるあたりの1603年に再建となりました。400年を経た現在、国宝に指定されていますが、先程の講堂は室町時代再建で500年前の建築ですが国宝ではなく重要文化財なのは何が違うのでしょうかと思ってしまいます。古さだけで無く、価値や重要性も含めて考えても国宝指定の基準の曖昧さに疑問を感じずにはいられません。

本尊の薬師如来像は国宝ではなく重要文化財とのことです。講堂に安置される国宝の仏像以上に心に迫る迫力があります。金堂の広い大空間に三体の像だけが来る人待ち受けておられるように鎮座しています。非常に荘厳で、一際大きく、金箔で輝きつつも部分的な剥げがかえって重みを増すかのような印象です。他であまり見ないと感じるのは、薬師如来の台座の下に小さめな十二神将像が並んでいるところです。まるで台座を下から支えているようにも見えます。薬師三尊像の脇侍は定石の日光菩薩、月光(がっこう)菩薩です。言うなれば薬師如来が医者なら日勤、夜勤の脇侍と言ったところでしょうか。

◆五重塔
五重塔といえば京都を象徴する、京都のイメージそのものであると言えます。京都市内で五重塔があるのは仁和寺、法観寺(八坂の塔)、醍醐寺とここ東寺の4ヶ所だけですが、どの塔も日本的な和の印象で心和む風景を作ってくれています。

東寺五重塔は講堂同様に空海によって建てられた建築で、空海が唐から持ち帰ってきたと言われる仏舎利(釈迦の遺骨)を塔の心柱下部に納めて建てられています。これまでに4回火災に遭い、現在の塔は徳川幕府の寄進により1644年に再建された5代目です。当時の将軍は家光であり、家光はこの東寺以外にも多くのお寺の再建に寄進をしているとして知られています。

五重塔の高さは55メートルあり、五重塔としては最も高いものです。法隆寺(奈良県)の五重塔のように屋根が上にいくに従って小さくなる低減タイプとは異なり5段の屋根の大きさがほぼ同じ大きさで作られており、スマートでより五重塔らしい端正なスタイルと言えます。

五重塔の内部は5階建てになっておらず、非常に多くの構造材で埋め尽くされており隙間はあまり無い状態ですが、各階で層を造らず一つの空間の謂わば1階建てです。最下部の初層部分はお堂のように多くの仏像が安置されています。ここでも密教の教えを具現化した立体曼荼羅が形成されています。心柱を大日如来に見立てて、柱の周りに4体の如来像を安置して五智如来としています。

期間限定の特別拝観の時に限り内部に入ることができます。また桜の時期と紅葉の時期には夜間特別拝観があり、桜や紅葉と一緒にライトアップされた五重塔が撮影できます。

この五重塔は講堂と同じく、空海がこの寺に入ってから造立を構想した建物ですが、講堂もこちら五重塔も空海は完成を見る事はできませんでした。完成したのは空海入定から50年後の事となります。


入定とは空海が永遠の瞑想に入った事を示します。高野山でも、こちら東寺でも空海は永遠の瞑想中であり、今現在もそれは続いているとされています_。境内の西側にある御影堂では毎日、空海に食事を供える生身供という法会(ほうえ)が続けられています。

食堂(じきどう)
有料拝観エリアを出て、先ほど通った食堂(じきどう)へ向かいます。かつては足利尊氏が居住した事もある建物ですが昭和5年12月の法会の失火による火災で焼失しました。現在の食堂は昭和9年の再建建物で、当初の建立時期は寺でも未詳となっていますが平安時代となるようです。僧侶が集って食事をした場所であったところからの名前です。

896年に理源大師聖宝によって千手観音立像と四天王像が安置されました。この千手観音立像は火災によって四天王像と共に焼失しましたが、一部破損した状態ではありますが宝物館の2階に安置されています。像高6mの大きな観音様です。一方、四天王像は4体とも全て焼け焦げて真っ黒の炭のような状態になっています。(食堂内部に展示されています)一度国宝指定を解除されましたが、四天王像としては最大の像であり、うっすらではありますが造立当初の造形を窺えるということから重要文化財指定となりました。なお食堂内に現在安置されている十一面観音立像は昭和9年のものです。


夜叉神堂(やしゃじんどう)
そのほかの建物として、夜叉神堂があります。もともと南大門に安置されていた夜叉神の像でしたが、ここを通る無礼な通行人に罰を与えるなどの伝説により境内内部に移動したと言う経緯があります。この夜叉神、歯の痛み緩和のご利益があるとのことで、隣の売店でキシリトール配合の食べるお守りを売っていたりとなかなか面白いです。

宝蔵
鎌倉時代の建立になる東門(慶賀門)のそばには宝蔵があります。一見すると正倉院の校倉造りと似た感じの高床式倉庫です。かつては宝物や経典を保管していた場所との事で、建物周りには火災時の延焼を防ぐ意味で堀が巡らせてあります。案内看板によると、1000年と1126年の2回火災に遭い1196年に文覚上人によって再建されたものが現在の宝蔵とされていましたが、より進んだ調査によって現在の建物は創建当初のものである可能性があるとのことです。


◆御影堂(国宝)
かつて空海の住まいがあった場所に建つ御影堂。
北大門付近
食堂を北側に回ると北大門があります。鎌倉時代の前期に再建された重要文化財指定の建築です。観光客が京都駅から来てこの北大門から境内に入場するというパターンはほぼ無いかと思いますが、 いくつか見所があります。

この北大門から出た石畳の道は京都で唯一道幅や位置が平安時代のままで残っている平安京の遺構とも言える道(櫛笥小路くしげこおじ)だそうです。ただちょっと見ただけだとよくわかりませんが。

境内の南側の九条通り側にも堀が巡らされていますが、北側の観智院手前にも堀のようなものがあります。宝蔵の堀と同じく火災時の延焼を防ぐ意味で設けられたのでしょうか。

東寺は京都駅から近く五重塔もあって有名な寺院ですが、清水寺や南禅寺のように常に観光客で溢れているというような派手さのある観光寺院ではないです。どちらかと言うと地元の人に愛されて心の拠り所となる存在と言った方が近いと思います。ただしそこに祀られる仏像群は驚きを持っての対面となるような迫力と存在感で感動的ですらあります。京都観光で一通り回った後の余り時間で寄るのではなく、最初に行く場所として計画することをお勧めします。