延暦寺は京都府と滋賀県の県境となる東山連峰の北方に位置する比叡山一帯の1700ヘクタールを寺域としており、寺の住所は滋賀県大津市になります。しかしながら延暦寺は平安京の北東にて鬼門を守る役割から、京都の街とは切っても切れない関係にあります。開創以来1200年の長きにわたり天台の教えを不滅の法灯と共に灯し続けています。

延暦寺
山と言う言葉は比叡山そのものを意味する言葉として、辞書で引いても出てくるほどに、山といえば(寺といえば)比叡山延暦寺であるという存在感の大きい寺です。天台宗の総本山であり、日本仏教の母山とも仰がれるのは、浄土宗の宗祖である法然、浄土真宗の宗祖である親鸞、日蓮宗の宗祖である日蓮、臨済宗の宗祖である栄西、曹洞宗の宗祖である道元も皆ここで修行を行ってそれぞれの宗派を確立させた事からこう呼ばれています。現在は世界文化遺産に登録されています。またおみくじ発祥の地としても知られており、現在でも対面式の占いのような形式のおみくじが行われています。

延暦寺はよくあるお寺のように一つの境内に伽藍が一通り揃って構成されているというものではなく、比叡山の山中一帯に100を超えるお堂や道場が広く点在しており、これらのお堂の総称として延暦寺となります。かつては山中に3000を超えるお堂があったとも言います。その中でも特に3つのエリアに分けられており、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)と称されています。
延暦寺ヘ
東塔は延暦寺の中心的な部分となり、本堂でもある「根本中堂」を中心とした重要なお堂が立ち並んでいるエリアとなります。アクセス方法は大きく分けて二つあります。京都側の八瀬から上がる方法と滋賀、琵琶湖側の坂本から上がる方法の二つです。

八瀬側からは、京阪電車の終点駅の出町柳駅から出ている叡山電車(通称、叡電)に乗車し終点の八瀬比叡山口まで行きます。叡電は貴船や鞍馬に行く路線もあるので行き先を確認して乗車してください。八瀬比叡山口で下車したらもう辺りはすっかり自然に囲まれた清々しい雰囲気の終着駅です。

コンビニすら無い駅前を歩くと渓流の高野川を木造の橋で渡ります。ここからなら、床もみじならぬ「テーブルもみじ」で最近有名な瑠璃光院が近いです。


すぐにケーブルカーの駅がありますので乗車します。ケーブルカーの次はロープウェイです。これらを乗り継いで比叡山を登っていきます。ロープウェイ下車後はバス停まで5分ほど舗装された山道を歩きます。このバスは比叡山の山中を東塔、西塔、横川を順に回っているシャトルバスです。東塔に行くには「東塔」というバス停では降りずに「延暦寺バスセンター」で下車します。ここが東塔の入口正面に着くからです。ケーブルカーからロープウェイ、バスと発車時刻は連絡しているので無駄な時間を使わなくて済むのがありがたいです。また、出町柳駅で各交通機関のセット料金の周遊きっぷ等も多種売っていますので事前に購入しておく方が楽です。



坂本側からは京阪石山坂本線の坂本比叡山口で下車し徒歩15分で坂本ケーブルカー乗り場に着きます。バスも出ていますが、せっかくの坂本の風情ある景色を見ながらゆったりとした上り坂を石垣を見ながら歩くのをお勧めします。こちら側からはケーブルカーのみで山上まで上がれます。このケーブルカーは日本一距離が長い2kmほどの路線で、途中にはケーブルカーではあまり見ないカーブがあったり、途中駅、トンネル、橋などを通り484mの高低差を10分ほどで登り降りします。下車した後は舗装された緩やかな山道を15分ほど歩くと東塔に着きます。

どちらからでも行くのは可能だと言う方には、京都側から登って坂本へ降りるコースがお勧めです。坂本の街並みがとても素晴らしく、穴太衆(あのうしゅう)と言う安土桃山あたりの時期に端を発する石工の集団による、野面積み(のづらずみ)の石垣が情緒たっぷりの風情です。

延暦寺 拝観情報
拝観時間は季節やエリアで異なりますので、事前に延暦寺ホームページで確認が必要です。拝観料金は3エリア共通券で1,000円です。山内はシャトルバスでの移動となりますが乗車の都度に料金を支払うより、1日券(1,000円)がお得です。例えば、比叡山頂から横川、西塔、東塔と乗車すると1500円ほどかかります。

拝観順序として東塔から行く、もしくは東塔のみで帰ってしまう例が多いようですが、横川と西塔にも見るべきところがありますのでシャトルバスを効果的に使って巡りたいです。京都側から登って比叡山頂のバス停からまずは一番奥に位置する横川まで行きます。ここでは写真を撮りながらのんびり歩いて横川中堂と元三大師堂を参拝して1時間で十分回れます。お堂からバス停までさほど遠くないのも便利で、再びシャトルバスに乗り込み東塔方面に戻る途中の西塔へ向かいます。

西塔もバス停からお堂まですぐです。にない堂と釈迦堂を参拝して30分ほどです。シャトルバスの時刻表を事前に確認しておきたいです。

そして見どころの多い東塔を最後にゆっくり回りますが、ちょうどこの辺でお昼になるかと思います。寺の境内なので食事処が豊富にあると言うわけではありませんので、東塔で境内に入る前の延暦寺バスセンターバス停周りの食事処、もしくは東塔境内にある鶴㐂そば店、宿泊施設の延暦寺会館のいずれかとなります。

東塔での参拝が終わったら、坂本ケーブルの駅までは舗装された緩やかな山道を15分ほど歩くと到着です。駅は大正レトロ感漂う古めかしさで、いい被写体となりそうです。2階に上がることができ、ホールのようなしつらえでテラスに出ると琵琶湖が一望のロケーションです。

ここからは各エリアを詳細に見ていきます。
東塔
延暦寺の本堂として天台宗の信仰の中心とも言える根本中堂(こんぽんちゅうどう)があるのが東塔です。延暦寺の根本となるお堂であり、中心となる建物なので根本中堂と呼ばれています。お寺の最も重要な建物を本堂と言いますが、これは根本中堂を略しているのです。

延暦寺バスセンターでバスを下車するとすぐに境内入り口となります。同じ山上の境内として高野山がありますが、高野山は全体的に平地で地内の高低差がさほど無いですが、こちら比叡山は起伏に富む地形に立地しており、各お堂を移動するごとにかなりの坂や階段を登り降りします。
根本中堂(国宝)
延暦寺の総本堂である根本中堂ですが元々は最澄が建てた一乗止観院を発端としており、最澄の死後になりますが823年に嵯峨天皇より延暦寺の寺号を賜った際に根本中堂と改められました。天台宗の宗祖である最澄が自ら刻んだ薬師瑠璃光如来を御本尊として祀っていますが、秘仏のため普段は御前立像にお参りします。当初から大きいお堂ではなく再建ごとに大きくなって、現在の建物は織田信長による焼き討ち後、1642年に徳川家光の寄進で再建された建物です。

延暦寺で一番大きいお堂がここ根本中堂で、流れるような銅板葺きの大屋根を持ち、2本の御神木が植わる前庭をとち葺き屋根の回廊で一周囲っている形状となっています。とち葺きは2.4cm厚の板を重ねて葺く屋根で、現在行われている根本中堂大改修で全面的に葺き直されます。なお現在の根本中堂の屋根は銅板葺きですが、再建当初は回廊と同じくとち葺き屋根でした。こちらも全面的に葺き直される予定です。

根本中堂は東塔の中でも一番深い谷の部分に建ちますが、寺の総本堂が一番低い場所にあると言うのも少し不思議な気がします。ここは最澄が20歳の時に比叡山にこもって修行を始めた場所でもあるので、この低くなった場所が落ち着く場所だったのかも知れません。
お堂内部に足を踏み入れると薄暗い外陣から、不滅の法灯によってかすかに照らされた内陣が見えます。石敷きの冷たさが伝わるような静けさの中、薬師如来が参拝者と同じ高さにて祀られており、目線が合うような位置関係です。これは誰もが仏になれると言う最澄の教えを表しています。そして両者の間には一段低い谷(修行の谷)があり、僧侶が読経する場所となっています。
不滅の法灯は、最澄が灯してから1200年間一度も消えた事のない火で、今も毎日油が継ぎ足されいつまでも最澄の教えを受け継いでいくと言う心を表しています。油を断ち炎が消えてしまえば大切な教えも途絶えてしまいますが、特に油を継ぎ足す係は決められておらず、誰もが気にかけるという事とされています。この事は「油断」という言葉の語源となっています。不滅の法灯は、今まで消えなかったから不滅なのではなく、これからも消さないという決意を表した言葉でもあるのです。
ただ、一度だけ不滅の法灯に危機的な状況があったと言います。信長による焼き討ちの際に不滅の法灯が消えてしまったのです。寺としては再度火をつけるなどという事はできないため思案に暮れていたところ、以前に山形の立石寺に不滅の法灯を分灯した火が灯り続けていることがわかり、その火を再び分灯してもらう事となり、不滅の法灯が復活したのです。立石寺は最澄の弟子の円仁が創建した寺で、天台宗を広く東北にまで広げています。延暦寺と同じように根本中堂もあり、山に登るように境内が広がっており山寺と言う通称通りのまさに山寺です。

根本中堂は現在10年間をかけて実施する各部の改修工事中で、お堂と回廊はすっぽりと仮設屋根で覆われている状態です。内部に入っての参拝は可能で、屋根部分の工事経過を見ることができるよう修学ステージも設けられています。ステージ上からは写真撮影も許されているのでじっくりと観察して楽しむことができます。


以前はお堂の前に御朱印所がありましたが、現在はお堂前の広場の向かいに仮設的に設置されています。それにしても根本中堂の外観を見られないのは残念だと思いながら広場を見回すと、お堂の正面には絶壁のような崖に張り付いた非常に急な石段があります。登り切ると根本中堂を見おろすほどで、平らにならされた土地に文殊楼と言う延暦寺の山門が建っています。
文殊楼(重要文化財)
1670年建立の文殊楼は延暦寺の山門で、坂本から山道を登ってくるとまずここに出るという位置にあります。根本中堂から上がってくるには一苦労するくらいの急な石段を登ります。楼門という2階部分がお堂となっている門の形式です。そして智慧を授けてくれる仏、文殊菩薩がここ文殊楼の御本尊です。




大講堂(重要文化財)
ここは延暦寺が学問修行の道場であるという事を表す象徴的な建物です。天台座主第一世の義真和尚の建立による建物で、僧侶が学問研鑽のため論議する道場です。前の広場にはたいてい大勢の参拝者が集まって、次はどのお堂に行こうかと地図を広げています。1642年に根本中堂と共に徳川家光によって再建されましたが、1956年(昭和31年)の火災で焼失してしまっています。現在の建物は昭和36年に麓の讃仏堂を移築したものです。ご本尊は大日如来で、脇侍に弥勒菩薩と観音菩薩を配しています。


お堂の中には延暦寺で修行して各宗派を確立した日本仏教を代表する高僧の木像が並んでいます。法然、栄西、道元、親鸞、日蓮など、どの木像も見た目がバラバラで共通性があまり無いですが、これは各宗派が製作してきたものをここに安置したからです。立像もあれば坐像もあり、荒めの彫りが特徴なものもあれば緻密な仏像のような像もあります。ここは必見です。

戒壇院(重要文化財)
仏の定めた戒律を受け、正式な僧侶になるための儀式を受戒と言います。この建物はその重要な儀式を行う場所であり、最初のお堂は828年に建立されましたが、現在の建物は1678年の再建されたものです。内部は石敷きで中央に石の基壇があり釈迦如来を中心に文殊菩薩と弥勒菩薩を祀っています。

元々受戒できる寺は全国でも、奈良 東大寺、栃木 薬師寺、福岡 観世音寺の三寺しか無く、京都のそばに受戒できる戒壇院を置く事は最澄の悲願でもありました。再三朝廷に願い出ていた最澄でしたが、ここ延暦寺でも受戒が認められる事となったのは最澄の死後7日後であったと言います。

大黒堂
かつて最澄が修行中に大黒天を感じ取った場所と言われています。現在のお堂は信長による焼き討ち以降の再建となる建物で、ご本尊は三面と言う珍しい大黒天で、左右に毘沙門天と弁財天の顔を持ちます。大国様の御朱印も頂くことができます。

阿弥陀堂
昭和12年に比叡山開創1150年を記念して再建された新しいお堂で、鎌倉時代初期の手法を凝らした純和様式の建築です。特に内陣天井の極彩色の文様が美しく、お堂と共に新しく彫られた丈六の阿弥陀如来像を安置します。丈六というのは一丈六尺を略した言い方で、仏像の大きさを表します。メートルで言うと約4.8mで、釈迦の身長がこの大きさであったところから来ています。坐像だとこの半分くらいの大きさとなり、このサイズ以上の仏像を大仏と呼びます。

法華総持院東塔
こちらも昭和時代(55年)に再建された新しい建物です。最澄は全国に6箇所で宝塔を建立し、その中に法華経の経典を1000巻納めその力で国を守ろうと考えました。その6箇所(栃木 大慈寺、群馬 浄法寺、福岡 竃門神社、大分 宇佐神宮、延暦寺 西塔、延暦寺 東塔)のうちの一つがこの東塔です。御本尊は大日如来坐像を中心とした五智如来です。ただし、建物は法華経のものでありますが御本尊は密教の本尊である大日如来と言う、密教と法華経を融合させたお堂が法華総持院であるといいます。

西塔
西塔エリアは東塔からシャトルバス乗車にて5分ほどの位置にあり、八重桜の名所としても知られており例年4月下旬頃に満開を迎えます。西塔には延暦寺で最も神聖な場所である浄土院があります。浄土院は最澄の御廟でもあり、十二年籠山業という厳しい修行を行なっている僧侶しか立ち入ることはできない場所です。最澄は現在も生き続けて瞑想中であるとして毎日食事が届けられています。

にない堂(重要文化財)
通称「にない堂」と呼ばれているのは、常行堂と法華堂という二つの建物の事で、左右対称のシンメトリーのデザインとなっており渡り廊下でつながっています。この渡り廊下を担い棒に見立てて、弁慶が両方の建物をになった(かついだ)と言う伝説からこの名があります。

常行堂は阿弥陀経を読経する修行専門の道場です。建物としては1595年の建立となる、五間×五間の正方形の形状です。三年籠山業と言う厳しい修行の中で行われる「常行三昧」の修行では、この常行堂に90日間籠り、不眠不休不臥で南無阿弥陀仏を唱え続ける行を行います。食事は運び入れられるとの事ですがその食事と、トイレ、沐浴以外は90日間眠らず、休まず、横にもならずにひたすらお堂の中を南無阿弥陀仏を唱え続けながら歩くのです。想像を絶する厳しい修行です。

常行堂と同じく1595年建立となる五間×五間の正方形の建物で、三年籠山行の中で行われる修行の一つ、「法華三昧」という厳しい修行を行います。法華経の作法に則り、4時間にわたる礼拝(らいはい)や読経を1日に6回繰り返し、これを90日間眠らず、休まず、横にもならずにひたすらお堂の中で続けます。 こちらも想像を絶する厳しい修行です。三年籠山行では常行三昧か法華三昧かのどちらかを修行僧自ら選択するのだそうです。

このにない堂の渡り廊下をくぐってそのまま直進し階段を降りていくと低い低地に釈迦堂があります。
釈迦堂(重要文化財)
ここ西塔の本堂である転法輪堂、通称釈迦堂です。焼き討ちの後、秀吉によって琵琶湖のほとりに建つ園城寺(通称 三井寺)の弥勒堂を1595年に移築してきた建物で、現在延暦寺の中で最も古い1343年建立の建築です。



横川
延暦寺の三つのエリアで一番北側にあるのが横川(よかわ)です。東塔、西塔とあるので、ここを北塔と言う呼び名としないのはなぜか理由は不明です。最澄の弟子の円仁が開創した場所で、横川中堂を本堂として角大師の絵で有名な元三大師のお堂などが参拝の中心となります。おみくじがここ延暦寺が発祥ということは意外と知られていないかと思いますが、横川にある元三大師堂では今でも古風なしきたりに則ったおみくじが行われています。
横川中堂
横川エリアの本堂が横川中堂です。最澄の弟子の円仁が848年に建立し横川が始まりました。昭和17年の落雷による火災でお堂が焼失したため、現在の建物は昭和46年に再建されたものですが、穴太衆による石垣の上に建つ朱塗りのお堂は新緑の黄緑に映えて非常に美しく、豊臣秀吉の側室淀殿が改築した意匠を踏襲しています。火災の際に、御本尊の聖観音像菩薩像(重要文化財)は被害を免れることができたとのことで現存しています。

この横川中堂ですが、延暦寺で一番のフォトスポットだと思います。苔が張り付いた穴太衆の石垣、脇から覆いかぶさる青もみじなどをうまく取り込んで、鮮やかな朱色のお堂を斜めに撮るといい感じですが、ちょっと定番過ぎでしょうか。







元三大師堂
元三大師堂は元三大師(がんざんだいし)の住居跡に967年に建立され、当時の村上天皇から四季ごとに法華経を講じるように命じられていたために四季講堂の別名もあります。当時は弥勒菩薩を本尊としていましたが現在は元三大師の絵を本尊として祀っています。

延暦寺がおみくじ発祥の地という事はあまり知られていない事ではありますが、そのおみくじが現在も行われているのがここ元三大師堂です。「行われている」という事から分かるように、ここのおみくじはくじを引くような簡易なものではなく、僧侶に相談したうえでおみくじに値する内容の場合のみ元三大師おみくじが行われるというものです。出たおみくじの内容を僧侶が解釈して説明してくれるという、占いのような形式で行われます。

ここ元三大師堂の住職は、人に対しておみくじと言う名ではありますが個人の生き方に影響を与える発言をすることから、延暦寺の誰よりも長い時間お経を唱えています。

元三大師は僧名を良源と言いますが、もっぱら元三大師と言う呼び名の方が有名です。985年正月の三日に亡くなられた事からこのように呼ばれていますが、命日からの呼び名と言うのも本人もなんとも言えない気分なのではないでしょうか。ただしこの元三大師という呼び名は諡号ではありません。もちろん諡号も贈られており、慈恵大師と言います。諡号(しごう)というのは高徳な僧侶が亡くなった後に、天皇から贈られる尊称で、平安時代から25名しか授与されていないと言います。一番有名なのは弘法大師と言う諡号を賜った空海でしょうか。

元三大師といえば角大師(つのだいし)のちょっと怖い不気味な姿の絵が有名ですが、イマイチわからないと言う人もこの絵を見れば、見たことがあるとなるはずです。京都の家の玄関やお店などにもお札がよく貼ってあります。この絵は、巷の疫病を鎮めるために瞑想していた元三大師の姿だと言われています。疫病を広めた鬼の姿であり、この札を貼ることにより疫病退散のご利益があると信じられています。



信長による比叡山焼き討ち
1571年9月12日に織田信長の軍勢が比叡山一帯のお堂と言うお堂、あらゆる人3000とも5000とも言う数を焼き尽くした事件を言います。現在の学者の中には焼き討ちが無かったと語る者もいるようですが、実際に焼け焦げた仏像が現存しています。
延暦寺の僧侶が現在語る中では、当時は寺の贅肉とも言える、必要でなかった経済力などの力があり、僧兵をかかえたり多くの荘園を持ったり本来は延暦寺の運営を助けるためのものが徐々に過剰となり、当時の実力者であった信長と立場がぶつかることとなったと言う事実があったようです。
信長は単純で、敵対する集団はただ殺戮すると言う思考しかなかったんでしょう。本願寺の時も同様ですので、時代のせいという事を差し引いてもあまりにも単純です。本能寺の変をいろいろ語る向きは多いですが、こんな単純な人物は身内に心底恨まれるのも全く不思議ではないです。単純ゆえにあっさり討たれてしまった、そんな気がします。
坂本ケーブルの工事中にはこの焼き討ちで亡くなった人を弔う石像が山中からたくさん出てきて、ケーブル途中駅に1箇所にお祀りされています。麓の坂本の町もほぼ焼き尽くされたと言うことです。
比叡山での修行
比叡山の開山である最澄は修行を徹底することに重きを置いていたようです。ここでは今でもその思いを受け継いで厳しい修行が行われています。三年籠山行、十二年籠山行、千日回峰行などどの修行も内容を聞いただけで逃げ出したくなるような非常に厳しい修行内容となっています。
千日回峰行
文字通り千日間にわたる修行ですが、その内容は詳しく聞いて理解してみるとそれは実現などあり得ないと思われるような途方もないものです。修行内容はひたすらに比叡山中を駆け巡るというものですが、一度始めたら途中でやめることは許されず、やめる時は自害する覚悟を持って臨むというものです。そのため吊りひも、短刀を所持して行(ぎょう)に出ます。自らの埋葬費も所持していると言う話もあります。
比叡の山中を一木一草にまで仏を感じとりながら260箇所の決められた場所で礼拝しながら1日で30km巡るというもので、まず最初の1年目から3年目までの3年間は同行程を1年に100日、4年目と5年目は同行程を1年に200日行います。ここまでの5年間を終了すると、この修行の最も過酷な「堂入り」となります。堂入りは閉ざされたお堂に籠もり、9日間真言を唱え続けます。この間、食事も水も、寝ることも休むことも一切許されないという人間の限界を遥かに超えた行(ぎょう)です。この時点でまさに生き仏です。
この堂入りのあとは回峰行がさらに厳しさを増します。6年目はコースが伸びて、京都側のふもとの赤山禅院と言う神仏習合の寺を回る部分が増えて総距離60kmとなり、観光客ならケーブルカーとロープウェイを乗り継いで上がるほどの高低差およそ700mほどある山中を含みます。この60kmを1日で回り、1年間で100日行を行います。
7年目は6年目のコースが更に伸びて京都大廻りと言う京都市内をほぼ一周する部分が加わり1日の距離は84kmとなります。これをまず100日行を行い、続く100日は当初の比叡山中を30km巡る内容となります。京都大回りの84kmのコースは早朝から深夜までかかりますがこれを100日続けていくにはどれほどの気力、精神力、体力が必要かまさに想像を絶する行です。
7年間の回峰行もここまできて終了となりますが、この7年間で歩く総距離は約40,000km、地球一周分となります。服装の白い着物は死装束で、いつ死んでも良いようにと言う出立ち。足元はワラジ。用意万端のスポーツシューズなど履いていないのです。ワラジは履いて歩いていると前のほうにずれて指が出てしまい、石などに当たってすぐに血だらけになってしまうようです。一番最初の一番短いコースでも1日30km。平坦な道を靴を履いて臨んでも大変な距離を、ワラジ履きでケモノ道のような山中を歩き通すのはやはりものすごい修行です。
12年籠山業
文中にもありましたが、最澄が最初にこの山に籠った12年と同じ時間を修行に専念する行です。西塔の浄土院に12年間籠り最澄の御廟に仕えるのですが、親族に不幸があろうが一切山を降りることはできないと言う厳しさです。
食事や休憩処など
鶴㐂そばは一隅会館の地下にあります。座席数はさほど多くないですが回転は良さそうなので、混んでいても時間をずらしてみてはいかがでしょうか。



梵字ラテ
最近延暦寺で有名なもののひとつに「梵字ラテ」があります。自分の干支で守本尊を選んでも良いし、お好きな仏の梵字をラテに浮かべてもらえると言うサービスです。限定ですが梵字ティラミスもあります。

開祖、最澄。伝教大師の諡号を賜る
延暦寺は、最澄(さいちょう)という日本仏教史上で弘法大師空海と並ぶ高僧が、788年に比叡の山中に結んだ一乗止観院(いちじょうしかんいん)と言う庵を起源として始まった寺です。
最澄は15歳で仏門に入り19歳の時に奈良東大寺の戒壇院で受戒して正式な僧侶となりました。当時僧侶になる事は並大抵の事ではなかったのです。国家公認制で非常に厳しい審査があり年間10名ほどしか合格しなかったようです。そしてこの受戒を受ける場所も東大寺のほか、九州の観世音寺、下野の薬師寺と全国で3箇所だけでした。
受戒後わずか3ヶ月後に最澄は奈良を離れてひとり比叡山に籠ります。山に12年間籠り、一度も山を降りてこなかったと言います。これは、国家鎮護のためではなく、天台の教えを極めて民衆を救うための仏教を実践したいという想いからでした。現在まで消えずに灯されている不滅の法灯はこの時に灯した火です。
ちょうどこの時代は、桓武天皇が平城京(奈良)から長岡に都を遷都しましたが天災や疫病が続き再度都を平安京(京都)へ遷都した時でした。平安京の鬼門である北東方角の比叡山で修行している最澄の事が桓武の耳に入ったのです。平城京では奈良の仏教勢力と衝突していた桓武は新しい仏教を求めていた時であり、最澄に興味を持った桓武は比叡山まで会いに行ったという記録もあります。
そして最澄は桓武の側近となり、祈念や仏法を講じる内供奉十禅師に大抜擢されました。その後最澄は天台の教えを突き詰めるために遣唐使として唐に渡り、2年間の修行を経て帰国し日本に天台宗を広めます。
最澄は822年に57歳で亡くなったあと、866年に清和天皇より「伝教大師」の諡号を賜っています。これは諡号として天皇から大師号を贈られた最初の例となりました。
一隅を照らす
最澄の言葉として最も有名なものに、「一隅を照らす」という言葉があります。自分の置かれた環境において精一杯努力して明るく輝ける人こそ尊い人であるという意味です。そう言った人こそが国宝であると言っています。数回訪れた程度ではなかなか理解できないですが。