
法隆寺へ
「和を以て貴しとなす」・・・法隆寺を知らない日本人はほぼいないと言えるほど有名な寺院であり、多くの驚きと不思議に満ちた謎の寺院でもあります。飛鳥(あすか)時代の西暦607年、聖徳太子によって創建されて以来1400年もの間、聖徳太子信仰を守ってきています。日本に仏教を伝えた中国や朝鮮半島では度重なる戦乱や天災により全て失われてしまい、もうこの様式の建物は残っておらず東アジアの古代の姿を今に伝える寺であると言えます。しかしながらこの寺、聖徳太子が建てた寺なのに聖徳太子信仰の寺って言うのはおかしいのでは?また、現在建っているのは本当に創建当時の建物なのか、戦乱や雷などでの火災には一度も遭っていないのか?これ以外にもこう言った未だ解明されていない多くの謎がある寺です。

法隆寺とは
法隆寺は1993年に日本で一番最初に世界遺産に登録された日本を代表する古寺ですが、創建から今に至るまでには幾度かの衰退期を経験してきています。明治新政府による神仏分離令を受けた廃仏毀釈の思想の影響はこの寺にも及び、財政的にも存続の危機状態となり所有する寺宝を手放さなければならない事態となりました。現在、東京国立博物館法隆寺宝物館に展示されている宝物の数々はその当時に法隆寺が皇室に献上した四十八体仏などの宝物が収められているものです。
現在の法隆寺は再建されたもの
法隆寺は1400年前の姿を今に伝えている世界一古い木造建築であるのは間違いありませんが、現在存在する伽藍は創建当時のままのものではありません。創建から63年後の670年に落雷による火災で全て焼けたと日本書紀に記されています。昭和の発掘調査で焼けた瓦などが発掘され、それを裏付ける結果として注目されました。そしてその位置も現在の伽藍の場所から少し離れた若草伽藍と呼ばれる場所にありました。要するに聖徳太子が創建した法隆寺は若草伽藍の方であり、これは火災で全て焼けており、現在の伽藍は再建法隆寺ということになります。若草伽藍焼失時点で太子は亡くなっており、(太子は622年に死去)皇位継承の争いで太子の一族は蘇我入鹿によって滅ぼされていましたが太子信仰は継続されており、677年から寺の再建が始まり810年に完成しています。それが現在の法隆寺となります。
よって、若草伽藍の創建法隆寺は太子が作った寺であるが、現在ある再建法隆寺は太子の死後に太子信仰から作られた寺と言えます。
法隆寺は奈良県の北部、大阪府に程近い斑鳩(いかるが)町の住宅街の中に静かに佇んでいます。JR大和路線で天王寺からは30分前後、快速も停まる法隆寺駅で下車しバスで10分ほど、徒歩で行くと20分ほどとなります。バスは便数が割とある方かと思いますので(日中9時から16時に20分間隔程度)、時刻表のタイミングが合わない時も、徒歩の道程はほとんど有意義とは言えない景色ですのでバスを待つことをお勧めします。

大きな法隆寺寺名の石柱からは松並木の参道が数百メートル続き、三門近くには数軒の土産物店が軒を構えています。バスはあえてこれら土産物店に客を入れ込むためかと思えるように、三門から離れて土産物店を過ぎたあたりの停留所に停まります。バス停を降りて三門に向かうと否応にも土産物や名物料理に目が行きます。土産物店では柿の葉すし、吉野葛を使った葛切り、奈良漬けなどの奈良名物が色々とおいてあり帰りにはぜひとも寄ってみたいです。

南大門
松並木の参道突き当りにあるのが法隆寺の正門とも言える南大門です。現存しているのは室町時代に再建されたもので、国宝指定となっています。一般的なお寺で言うところの山門に当たりますが、門の両脇には仁王像はありません。軒の反り返りがきつめで先端が大きく広がった特徴的な形状をしています。


この門の階段手前の地面にある「鯛石」が有名で、法隆寺七不思議の一つとなっています。この七不思議についてはかなり後世の創作とはなるかと思いますが、こう言ったものを探しながら寺巡りするのは面白いと思います。鯛石は、ちょっと無理があるかと思いますが、形が鯛に似ているところから名付けられており、この石を踏むと水害から守られると言う言い伝えがあります。

南大門をくぐるとこれまでの景色との変化の大きさに驚かされます。確証は無いのにこれが飛鳥時代かぁ、と言いたくなるような景色であり、当時のまま時間が止まっているかのようです。


参道途中の両サイドには土塀が続いており、古めかしさをより引き立てています。この土塀の向こう側には立ち入ることが出来ないので何があるかはわかりませんが寺務所や塔頭寺院があるようです。


中門
中門辺りまで来ると人が多くなってきます。この中門は飛鳥時代の建立になる世界最古の木造の門で国宝です。全体が檜で作られており、2階部分の手摺のような欄干部分などは本堂の金堂と共通したデザイン要素で構成されています。全体像ではなんとなく金堂に似たような様相です。あまりに古すぎてほかに類例が無いため、この様式が独特なのか当時の流行りなのかわからないのです。4間あるうち中央の2間が門になっていますが、現在ここを通行する事はできません。両脇には金剛力士像(仁王像)がおられますが、土を固めて作られた塑造であり、向かって右側が怒りの表情の阿形像、左側が吽形像で、口を閉じて怒りを内に秘めています。部分的に補修がなされていて全体を見るとつぎはぎだらけで痛々しい感じです。

この門からの出入りは出来ませんので、この内側の西院伽藍(さいいんがらん)に入るには向かって左側に進んだ入り口から入場します。拝観料1,500円を納めて入場します。

回廊
拝観受付を過ぎると西院伽藍を取り囲む回廊越しに世界最古の木造建築として有名な五重塔と金堂(こんどう)が見えます。後で見忘れてしまうかもしれませんので、五重塔に行く前にこの回廊を見ておきたいです。この回廊もまた飛鳥時代のもので国宝です。ギリシャ神殿の列柱で有名なエンタシスと同様の手法で作られています。柱の上部と下部よりも中央部分を膨らませて作り、離れて見ても痩せて見えないようにする工夫です。ところどころ傷んだ部分を埋め木と言う手法で補修しており、大切に受け継がれてきた事が窺えます。回廊の屋根を支える梁もよく見ると直線の木材ではなく、ごく僅かな曲線を描いており優美です。(一部に江戸時代の修復により直線の梁も存在します。)


回廊外面に設けられた窓の格子は、菱形の木材をはめ込むなど細かい仕事がなされています。隙間の間隔も微妙であり、窓越しに見える紅葉と縦格子の見え方が額縁の絵のようです。



列柱の足元はしっかりとした礎石の上に立ち、流石に最下部は腐食などもあったようで、部分的な補修がなされているものもあります。


回廊は西院伽藍をぐるっと一周取り囲んでおり途中、西側に経蔵を東側に鐘楼を左右対称に組み込んでおり北側の頂上部に大講堂があります。この中央の広場部分に五重塔と金堂が横に並ぶ格好で建っています。この回廊自体は左右対称ではなく、1間だけ金堂側の東側が長くなっています。金堂が横長でありバランスを考えての配置のようです。

五重塔
建立は約1400年前(飛鳥時代)になる、世界最古の木造建築で国宝です。高さ32.5mもの木造の塔が落雷で一度も火災にあっていないのが不思議としか言いようがありません。仏教の祖である釈迦如来の骨を祀るための建物であり、まさにそのご加護と言えましょう。五重塔はこの五重の屋根を持つ建物自体に意味があるのではなく、中心に貫く心柱が重要でありこの心柱を守るいわば雨よけが塔なのです。しかしながら、やはりこのいにしえの雰囲気漂うギザギザが空を切り取る風景には日本らしさを最も感じるのは事実です。

五重塔の心柱ですが、五重屋根を支えるべく建っているのではなく、どの柱や梁にも接続されていない状態で据えられています。地震の際には屋根と反対の動きをして塔の揺れを抑える効果があるように解釈して、はるか昔の耐震構造などと説明されている事がありますが、そうではなく最も神聖な心柱に梁を打ち付けていないだけの事です。意味や役割はシンプルなものです。心柱の真下には仏舎利と言う釈迦の遺骨を祀っています。真言宗の寺では心柱を大日如来に見立てて塔内を立体曼荼羅としていることもあります。

この心柱は2本が継ぎ足された状態になっており、木の断面の年輪からその木の伐採年を割り出す手法によって解析したところ、この木の伐採年が594年であるとわかったそうです。再建法隆寺が677年から着工したはずですので、着工よりも80年も前に伐採されていることになります。再建用に用意してあったのか、年輪解析法が正しくないのか、再建時期の推測が正しくないのか、若草伽藍の塔の心柱を再利用したのか、いろいろと謎ではあります

屋根は軒反りと呼ばれる左右に大きく広がった形状が特徴で、複雑な木組みで支えられています。最上部の建物胴体部分は最下部の約半分ほどの幅になっており、下から見上げた際の安定感と高さをより強調する意匠になっています。

屋根を数えると6重になっていますが、最下部の屋根は裳階(もこし)と言い、構造的補強かつ防雨の役割を担っている部分となります。


最下部の内部は見学可能で、粘土を固めた塑像で仏教の教えを解く場面が再現されている「塔本塑像」(国宝)が安置されています。釈迦の入滅場面の涅槃像は広く紹介されているので目にされた事があるかと思います。

五重塔を下から見上げてみても、屋根の先端がずれている事も無くスッと一直線にきれいに揃っています。木材が伐採前に立っていた方角と同じ方角に木材としても配置するということをしているようです。それにより建てたあとにおかしな反りなどが出ないようです。1400年前とはいえ恐ろしく理論的な思考と経験値を持っていると感心します。


金堂
この寺の本尊である釈迦三尊像を祀る本堂が金堂(こんどう)です。五重塔と同じく飛鳥時代の作となる国宝建築です。二重の深く広がった屋根を持ちますが建物としては1階建てです。

1層目の屋根の上部に2層目の屋根を支えるために四隅に柱が取り付けられていますが、これは後世の江戸時代に加えられたものです。この建物、柱や梁のサイズが割と細いということで建物に歪みが出ていたために付け加えられたものです。再建時に寺の財政状況が悪く、必要な材料が揃えられなかった事が原因で、実際に天井内には多数の補強材がジャングルジムのように付け加えられています。
また、1層目の屋根の下には五重塔と同じく裳階が付けられていますが、これも後世に補強の意味で取り付けられたものです。

細部の作りはしっかりとした丁寧なものであり、扉の縦格子のサンははめ込みではなく1枚の板をくり抜いて縦格子状にしています。

金堂はすべての部分が建立当時のままというものではなく、昭和24年1月26日に火災に遭っています。堂内の電気座布団の不始末が原因で朝7時頃に出火し、8時頃に鎮火しています。1階の柱は全て焼け、12面の壁画の大半が崩れ落ちていたようです。当時金堂は解体修理の最中であり周りにはやぐら足場が組まれており、屋根が外されていた状況。中の国宝の仏像群は移動されていたため被害を免れることができました。焼けた1階の柱や壁は解体されずに収蔵庫にそのままの状態で保管されています。(非公開)現在の壁画は再現されたものが設置されています。
釈迦三尊像

本尊の国宝釈迦三尊像は脇侍に薬王菩薩と薬上菩薩を配し、飛鳥時代の仏像の特徴的な造形として、衣が台座まで左右に広がり全体が二等辺三角形に見える形状となっています。顔つきは細身で、アーモンド型の目とアルカイックスマイルが特徴的な金銅製の像で、止利仏師の作となる像です。(止利仏師:とりぶっし/飛鳥時代の仏師)
太子の死後623年に完成した像ですが光背の裏面には、「621年、聖徳太子の母親が亡くなり翌年には太子夫婦が揃って病気に倒れた。病に倒れた太子の回復を願って釈迦三尊像を作ることとなったがその途中で太子が亡くなったため成仏を願って像を完成させた。」とあります。この事からもこれらの像は太子が作った像ではない事がわかります。よって、この金堂も西院伽藍も聖徳太子が作ったものではないことがわかります。
四角い天蓋が天井に据えられており彫刻や飾りが施されていますが下からはほとんど見えないです。TVなどの映像では至近距離から見ることができますが、実際の見学となると須弥壇に近づくことはできずもう少し間近で見ることができればと思う感じです。

薬師如来像
釈迦三尊像の向かって右側に安置されているのが薬師如来像です。こちらも僅かなアルカイックスマイルを浮かべた飛鳥時代の仏像の特徴を持った像です。
像の光背の裏面に書かれた文字を読み解くと、「用明天皇(聖徳太子の父)が自らの病気平癒を願いこの寺と薬師如来像を作ることとなった。ところがこの完成を見ることなくこの世を去った。その意志を継ぎ607年に推古天皇と聖徳太子がこの寺を建立した。」と書かれている。
つまり、寺は聖徳太子が父用明天皇のために薬師如来像を本尊として創建したものとなります。これが創建法隆寺(若草伽藍)で、若草伽藍の本尊はこの薬師如来像であったと言うこととなります。
既述のとおり、太子がこの世を去ったあと670年に全て焼失し、その後に再建され太子を信仰する寺へと生まれ変わったのですが、これは太子の死後寺が衰退し太子信仰として存続するための道であったということです。



大講堂
西院伽藍の北側の一番上部に位置するのが大講堂です。西院伽藍ができた当時のものでは無いようで、平安時代990年に建立された建築です。堂内には同じく平安時代の作の薬師三尊像が祀られています。


大講堂の正面に付けられた、のれんのような幕は門帳というものです。ここに描かれているのがお寺の家紋である、寺紋です。法隆寺の寺紋は多聞天紋という柄で、金堂に祀られている四天王のうちの多聞天の光背上部に描かれた図案を使用しています。




西院伽藍を一通り見終わって回廊の端から有料エリアを出ると、東室や聖霊院のある古代建築のエリアに来ます。ここも国宝建築揃いでこれまでの寺院建築とはまた異なる印象の建築となります。

左側の建物が、平安時代作で国宝の聖徳太子の像を祀る「国宝 聖霊院」で、その奥に見えるのが飛鳥時代の建立になる「国宝 東室」です。東室は僧侶が居住する建物で、元々は手前の聖霊院も東室であったのが鎌倉時代の改造によって聖霊院とされました。右側に見えるのが妻室と呼ばれる平安時代の建立になる重要文化財の建物で、これも僧侶の居住空間です。

聖霊院は国宝建築でありながら、現在御朱印所として使用されています。

綱封蔵は高床式建築で、倉として使用されていた建物です。隣の食堂(じきどう)とともに、東室という居住空間の付属施設がここに集まっている状況です。

更に東に向かって歩いていくと奈良時代建立となる国宝の東大門があります。西院伽藍の回廊と同じように柱にはエンタシスの技法で製作された様子が窺えます。そしてここから伸びる築地塀は重要文化財に指定されています。




東大門をくぐりそのまま更に進み塔頭寺院がある中を抜けると東院伽藍があります。ここはかつての聖徳太子の斑鳩宮があった場所です。教科書にも掲載されている著名な建築である夢殿があります。夢殿は救世観音を本尊として祀るお堂で、八角形の平面が特徴的な奈良時代の建立となる国宝建築です。ここは聖徳太子信仰が更に色濃く現れた場所で、救世観音像は太子そのものであると言われています。





法隆寺も西院伽藍から拝観し始めて、ここ東院伽藍まで来ると相当長きにわたる歴史を感じてきたこととなります。聖徳太子による創建から、太子信仰へとの流れがその衆生の強い想いと共に受け継がれてきたというのもよくわかる状態で、このように現存するということが奇跡的でさえあると感じることができる寺です。