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ちょっと通な京都観光《大徳寺》

◆大徳寺とは

京都には大規模な禅寺の大本山がいくつかありますが、ここ大徳寺もそのうちの一つになります。禅寺というのは禅宗寺院のことであり、そして禅宗というのは坐禅を修行の中心とし座禅の修行を通して仏の教えを理解していくという宗派です。

禅宗にはここ大徳寺が教えている臨済宗のほか、曹洞宗、黄檗宗があり、それぞれの宗派の中でも大本山の寺が各派を形成しています。京都にある禅寺の臨済宗の大本山では大徳寺のほか妙心寺、建仁寺、天龍寺、相国寺、南禅寺、東福寺などがあります。

北大路通沿いの入り口。この入り口からは境内の広大さがわかりづらい。

大徳寺は鎌倉時代後期の1315年に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師)が創建した臨済宗大徳寺派の大本山です。京都市営地下鉄烏丸線の北大路駅から徒歩圏内の地に50,000坪と言う広大な敷地を有し、24の塔頭寺院等が控える大寺院です。大徳寺は基本的には非公開のお寺ですが、境内は自由に入場できて、お堂の前でご本尊に参拝もできます。ただやはりお堂内での参拝や伽藍の見学が出来ないため、やや無愛想な印象はいがめません。多くの塔頭も拝観できない寺院が多いですが、いくつかの塔頭は期間限定にはなりますが、素晴らしい庭園を拝見することができます。

ここ大徳寺は林下(りんか、もしくはりんげ)の禅寺となります。林下とは、五山に数えられる室町幕府管理による禅寺とは異なり、厳しい修行を主とする禅寺を言います。京都五山は別格の南禅寺から、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺となりますが、妙心寺や大徳寺といった大規模禅寺が五山に入っていないのはこう言った理由からです。

北大路通り沿に建つ南門。

◆大徳寺へ

大徳寺へは京都市営地下鉄烏丸線の北大路駅からバス利用もしくは徒歩となります。バスは北1、北8、204、205、206系統に乗車し大徳寺前バス停下車すぐです。

広大な境内へ入る際には寺の正門である三門(三解脱門)から入りたいところですが、主要なお堂が全て南向きに建っており南面の北大路通りにある門が三門だと仮定して向かいましたが、どうやら違うようです。

南門を抜けると松並木の参道が続く。

北大路通り沿いの南門ですが、この大寺院である大徳寺の三門(三解脱門)がこのサイズではないなと独り言を言いつつ、真っ直ぐに伸びる参道を進みます。

後水尾天皇から下賜された重要文化財指定の勅使門

◆勅使門

参道の突き当たりに唐破風屋根の古い門があります。これは勅使門(ちょくしもん)と言い、皇族もしくは天皇の勅使が通る門で普段は閉ざされています。御所から移築された門で、重要文化財指定となっています。そしてこの門の奥に朱塗りの大きな楼門形式の門が堂々とした佇まいで建っています。

金毛閣とも呼ばれる大徳寺三門

◆三門(金毛閣)

別名「金毛閣」とも呼ばれる朱塗りの楼門が大徳寺の三門です。楼門というのは門の上部空間がお堂のようなしつらえになっている2階建ての門を言います。この2階部分は千利休の寄進によって後に増築されたものであり、現在は重要文化財に指定されています。大徳寺の境内で最も古い建物のひとつです。

◆千利休切腹の原因

この三門は広く知られた千利休切腹のストーリーにつながります。楼門を寄進してくれた千利休に対しての寺からの御礼として、利休の木像を2階部分に設置しました。伽藍の寄進者に対して御礼の意味でその人物の木像を安置するのはよくあることでしたが、この木造が雪駄履きの状態であり、門を通る皇族や秀吉の頭を踏みつけていると秀吉から言い掛かりを付けられ、利休は切腹を申し付けられたのです。厳密に言うと切腹を言われる前に、利休が秀吉に謝罪すれば済むという話であったようですが、利休は謝罪を受け入れず切腹も構わないという対応を取ったとのことです。

木像の安置から2年後に突然起こった切腹劇であり、なかなか考えずらい切腹理由ではありますが、これが現時点での利休切腹の理由とされています。そんな利休も2022年は生誕500年となります。

千利休は大阪の堺で倉庫業などを営む裕福な家系の出身であり、茶人として大成していきますが、時の実力者への入り込みが上手く、政策立案などにも長けていると言う理由から信長や秀吉のブレーンとして活躍します。

当時は茶会を「茶の湯」と言い、秀吉主催の茶の湯を大徳寺で開催する手筈を利休が整えます。これが成功して有名な北野天満宮の茶の湯へと発展していきます。天皇とも茶会を催すようになり、秀吉の地位を天皇に認めさせる事につながりました。こういった事が千利休の功績となり、次第に政策に深く関わっていくようになり、「公の事は秀長(秀吉の弟)に、内々のことは利休に」と言われるほどの側近となっていました。この時には秀吉に物を申せるのは利休しかいないと言われる状況でした。

そんな利休に、雪駄履きの木像設置くらいで切腹を言い渡ことなどあるのでしょうか。より深い政策上の意見対立などが原因かと思います。しかしながら事実、利休は69歳で亡くなっています。

この門の北側奥に、門から一直線上に仏殿や法堂(はっとう)などの七堂伽藍が建ち並ぶ、大徳寺の本体とも言える「本坊」と言うエリアとなります。

普段はここまでしか近寄れないのが残念

◆大徳寺伽藍配置の不思議

本坊では、三門から七堂伽藍が一直線上に割と窮屈な間隔で建ち並んでいます。このエリアは非公開なので中に入っていろいろと確認することはできませんが、この広大な境内にしては不自然なほど狭い空間に押し込められています。

大徳寺境内図。緑色の本坊エリアがずいぶん狭いのがわかる。

上の写真は大徳寺境内図ですが、境内の右寄りの緑色にお堂の絵がある部分が本坊です。敷地全体から比べるとずいぶんと狭いのがわかります。というよりも、本坊に比べてピンク色の塔頭寺院が広すぎると感じます。

大徳寺境内の東側にある総門

北大路通から脇の道を北に上がってしばらく行くと、現在は大徳寺全体の正門となっている総門が東向きに建っています。事実上大徳寺本体よりも後に出来ているはずの塔頭寺院の敷地を避けるように参道が直角に曲がっています。

写真右側に三門があり、門を出ると参道は直角に曲がり東に(こちら側)に向く

◆法堂(はっとう) (重要文化財)

大燈国師三百年遠忌の際に再建されたお堂で、天井には妙心寺の法堂と同じく狩野探幽による龍の天井画が描かれています。妙心寺では法堂の内部見学は可能ですが、ここ大徳寺ではそれは叶いません。

法堂の横側。こちら側は解放された通路になっている

◆一休さんとの縁

京都の市中で10年以上に渡って続いた応仁の乱でこの大徳寺もすっかり荒廃してしまい、後に一休さんとして現代でも広く知られる一休宗純(いっきゅう そうじゅん)が住職となり復興に尽力します。一休宗純もこの時すでに80歳と高齢でありながら、住まいであった京田辺の酬恩庵からここ大徳寺に通ったとの事です。

一休宗純はあのアニメのイメージとは異なり、かなりの変人で奇行が目立つ人物であったと言われ、仏教を壊す破壊僧などとも言われていたようです。しかしながら皇族の出身でありながら権力を嫌い、人々との交流を大事にする人柄によって多くの人に慕われていた人物でもありました。

南北方向の通路

◆大徳寺と塔頭

妙心寺と大徳寺。どちらも洛中に広大な境内を持ち、多くの塔頭寺院を有する臨済宗の大本山であり、どことなく境内の雰囲気が近い気がします。ただ、清水寺などの京都の他の有名寺院に比べると、やはりそこは禅寺らしく地味で質素な印象です。本坊においては正にそう言った感じですが、塔頭寺院の境内をちょっと覗いてみると一転して素晴らしい庭園を有する華やかな雰囲気さえ感じる寺が多いです。

東西方向の通路

塔頭寺院とは、その寺の住職であった僧が引退後に居住する寺であったり、武将や実力者が菩提寺として建立する例などがあり、その大本山の子院となります。

ここ大徳寺にはそれは素晴らしい佇まいの庭園と歴史的価値の高い建物を有する塔頭がいくつもあり、普段は非公開ながら定期的な特別拝観を開催している寺もあるためタイミングさえ合えば参拝可能です。

改修工事中の仏殿では参拝はできる

大徳寺は大燈国師によって1326年に創建されてから700年近くの年月をただ一心に禅の教えを守り伝えて来ました。ここに来るとその長い年月の中に存在した時空が、今現在のこの瞬間の存在に与えた影響の大きさを感じずにはいられません。いずれ開催される大徳寺本坊の特別拝観を楽しみにしてここを後にします。