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京都散歩〜「国家安康」の梵鐘 方広寺

京阪電車を七条の駅で降りて三十三間堂や京都国立博物館方向に歩いて数分、京都国立博物館の手前の交差点を左に曲がります。豊国神社(とよくにじんじゃ)の更に奥、こじんまりと方広寺はあります。

国家安康の梵鐘を吊るす鐘楼と、向こうに見えるのが現在の方広寺。

京都には大仏が、現在は無いのは周知の当然でありますがかつては存在したと言う事については、京都散歩〜京都大仏編で書きましたが、この大仏のあったお寺が方広寺(ほうこうじ)です。現在も存在していますが、かつては豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂あたりまで広がる大寺院でした。ちょうどこの頃は秀吉が病死して関ヶ原の合戦にて家康が勝利したころですが、関西圏では未だ豊臣恩顧の勢力が秀吉の息子秀頼を中心に力を保持していたため、家康としては秀頼をどうにかして消したいと思っていた時期です。表面には出してこなかったその想いを一気に爆発させたのがこの方広寺の鐘に刻まれた文字に端を発する事件です。

国家安康、君臣豊楽の文字。見やすいように囲んでくれてある。

方広寺の梵鐘は日本一の大きさと重さを誇る巨大な梵鐘です。この梵鐘の表面に書かれた、国家安康、君臣豊楽と言う文字。「国家安康」は家康という文字を分断している。「君臣豊楽」は豊臣の繁栄を意味する。こう言って家康は秀頼に言いがかりを付けて大阪城に攻め入って豊臣を絶滅させました。これが世に言う大坂の陣です。

国家安康の銘鐘。とにかく大きい。その重量80トン以上!

要はこの梵鐘に刻まれた文字が発端で家康が怒り、大坂の陣が起きて豊臣が滅んだ、その原因となった訳です。しかしこの話はあまりにも歴史専門家やマニアが喜びたいがためのストーリーに思えてなりません。元々、方広寺大仏建立は家康も認めていたのでこの話は無理があります。古文書にそう書いてあるのかも知れませんが、それが真実という別の証明は有りません。そもそも梵鐘に書かれたこんな小さな文字の一字一句を家康が見るはずもありませんし、こんな文字に文句を付けるなど考えられません。ただ、現在を生きる人間は誰も当時を見ていないわけで、歴史全てにおいては絶対の真実は一切無いですが、検証結果を一定の高確率で正とする、といったところで落ち着くと言ったところでしょうか。

鐘楼内部の天井には天女の絵や多くの文様が描かれて鮮やかな印象。

いずれにせよこちらの梵鐘は非常に大きく、日本三大梵鐘と言うことで巨大さを競う三つの梵鐘がありますが、そのうちの一つに数えられています。1つ目はここ方広寺(80トン)。あとは東大寺(26トン)、知恩院(70トン)です。いずれも巨大な鐘です。

鐘楼も一つのお堂とも言えるくらいの重厚さです。
  • 東大寺:重量26.3トン、高さ3.9m、直径2.7m、厚さ不明
  • 方広寺:重量82.7トン、高さ4.2m、直径2.8m、厚さ27cm
  • 知恩院: 重量70トン、高さ3.3m、直径2.8m、厚さ不明
鋳造されたものの一部破片が鐘楼内部に放置されている。これは何の破片か?大仏の一部?
こちらは知恩院。鐘楼に収まる梵鐘。

上記を見ると東大寺の梵鐘が他の2つに比べて軽いのは板厚が薄いからだと言えます。実際に見たときは非常に厚いと感じましたが方広寺の27cmには及ばないと思います。 お時間があったら、是非とも3箇所を巡ってみてください。