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西国三十三所巡りの京都編です。

西国三十三所 第九番 興福寺 南円堂

興福寺 南円堂へのアクセス

西国三十三所 観世音菩薩巡礼、第九番札所は興福寺 南円堂です。こちらアクセス難易度は★(星ひとつ)です。近鉄奈良線 近鉄奈良駅から、東向き商店街を抜けて三条通りに出たら左に折れてすぐです。ちょうど右手に猿沢池が見えたあたりで左側の石段を登るともう南円堂と藤棚が目前に現れます。

国宝 興福寺 南円堂。通常は内部非公開のため扉が閉ざされています。
猿沢の池越しに見る興福寺境内。

この南円堂をバックに藤が咲いた時期に来ることができれば素晴らしいです。ここにこの藤が植わっている理由ですが、観世音菩薩がおられる補陀落浄土には沢山の藤が咲くからだとか、創建にかかわった藤原氏にちなんでいるからなどの説があります。こちらの興福寺ですが郊外ではありますが、駅近であるうえ奈良きっての観光地であるためここに至る道も観光地のそれらしく賑やかで楽しげなので西国巡礼の中でも好アクセスなお寺と言えます。

この石碑が南円堂への目印。

興福寺の境内

境内は拝観料なく自由に入ることができます。(東金堂、国宝館は別途拝観料が必要です。)西国巡礼の札所である南円堂(重要文化財)はこの興福寺のお堂のひとつであり、広い境内にはこの南円堂のほかに五重の塔、三重の塔、東金堂、北円堂と全て国宝のお堂がある他、平成最後の年に天平時代の姿で再建となった中金堂、それにあの有名な阿修羅像を収蔵する国宝館など見どころの多い大寺院です。

東金堂と五重の塔。
国宝 三重の塔。

南大門や西金堂は柱の基礎石のみが残っているに過ぎませんが、しかしながら現存しないのは残念ではありますがその基礎石の大きさや配置から建物規模などを想像して当時の七堂伽藍が揃った姿を想うのも楽しいものです。遺構好きの方が多いのもこう言った楽しさがあるからでしょうか。

中門跡の基礎石越しに南円堂を臨む。この写真左側に南大門跡がある。

受難の明治初期

興福寺はその歴史や伝統、規模や役割など現在でも大寺院として存在感の非常に大きいお寺でありますが、神仏習合の形を取ってきた寺院にとって避けられぬ悲劇を明治政府から受ける事となります。廃仏毀釈がまさに嵐のように襲ってきた際には塔頭を含めて貴重な仏像が破壊され、お堂は倒され、五重の塔については数百円で売りに出されてしまい、平安時代から一体となって1つの寺院としてきた春日大社とも完全分離されてしまいます。

国宝の東金堂。国宝仏を多数安置する。

寺院、神社にとってもそうですが、日本の歴史は寺院、神社との関わりがあってこそと言えますので日本史自体もこの政策によって破壊されたと言って良いと思います。現在では何もなかったかのような風潮ですが、声を消されているかのようです。それ以降全国的に寺院は荒廃を極め、見るも無残な状況が続き廃寺となったお寺も多くあったのです。こちら興福寺でさえも荒れ果ててしまい、現在のような環境や歴史や伝統などを大切にしようという近代的な思考が一般に浸透していなかったせいもあり、守るべきものであるという対象として扱われていない状況でした。もちろん国宝などという制度も無い時代です。

南円堂正面向かいにある手水舎。

南円堂は藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が父親の菩提を弔うために建てたお堂ですが、現在のお堂は江戸時代の再建になるものです。ご本尊は国宝の不空羂索観世音菩薩で、運慶の父親の康慶の作となる仏像で、西国では不空羂索観世音菩薩はこちら興福寺だけです。観世音様としては珍しく額にも縦の目があり、3つの目で衆生を見つめています。不空羂索観世音菩薩、衆生の祈りを空にせず羂索ひもでつなぎとめる。ぜひお会いしたいですが、秘仏でありお前立ち像もありません。毎年一回十月十七日のみご開帳されます。

北円堂から見た南円堂。

この不空羂索観世音菩薩や阿修羅像もですが、廃仏毀釈の当時は僧侶はじめ寺院関係者の相当な苦労で守り抜いたのであろうと想像できます。南円堂は他のお堂とは異なり八角の円堂であり、普段は締め切りになっているため須弥壇の前まで行けると言う形式ではないのでお堂の前面下段でのお参りとなります。御朱印所はすぐ前の寺務所にてご対応いただけます。

北円堂から見た五重の塔。

南円堂でのお参りが済んだら東金堂に安置された薬師如来像他の国宝仏にも是非お参りしたいです。仏像はやはり博物館などの照明に照らされた下で見るより、あるべき場所のお堂内で拝見したいものです。

中門の跡越しに見る中金堂。
手前に見える柵内が中門の跡。その奥に再建なった中金堂。